聖書信仰の見張り人たち

聖書信仰の見張り人たち

「使徒・預言者」プロファイル:ダン・ジャスター(Dan Juster)

略歴

ダン・ジャスター

メシアニックジュー運動の指導者。1947年に米国でユダヤ人の父と異邦人の母の元に生まれる。メシアニックジュー運動を展開して複数のメシアニック会衆1を建て上げた後、メシアニック会衆の連合体であるUMJC(Union of Messianic Jewish Congregations)を他のメンバーと共に創立。その後、イスラエルに移住。世界最大の使徒団体であるICAL(International Coalition of Apostolic Leaders)に初期の頃から加盟しているメンバーであり、NAR(新使徒的宗教改革)の思想的指導者であるC・ピーター・ワグナーから「ユダヤ人の使徒」と呼ばれた2

主な関連団体

ティックーン・インターナショナル(Tikkun International)

ダン・ジャスターが、アシェル・イントレーター(Asher Intrater)、エイタン・シシコフ(Eitan Shishkoff)、マイケル・ブラウン(Michael Brown)、ポール・ウィルバー(Paul Wilbur)らと共に米国で創立した団体。ジャスターの様々な活動の母体となる。現在の活動拠点はイスラエル。五役者の回復や、使徒の下での教会一致を求めて活動している。

Webサイト:https://tikkun.tv/

MJBI (Messianic Jewish Biblical Institute)

メシアニック会衆の指導者を養成する機関。ロシアでメシアニック会衆を指導していたメシアニック・ラビのジョナサン・バーニス(Jonathan Bernis)とジャスターが1995年に共同で創設。現在はGateway Center for Israelと名称が変更されている。

Webサイト:https://mjbi.org/

UMJC(Union of Messianic Jewish Congregations)

8か国75か所のメシアニック会衆を束ねる団体。ジャスターらが中心になって1979年に設立された。UMJCは、MJAA(Messianic Jewish Alliance of America)に次ぐ数の加盟会衆を抱える米国第二のメシアニックジュー団体である。

Webサイト:https://www.umjc.org/

UMJCの指導層については、重大な神学的問題(二契約神学など)があることが元加盟会衆のメシアニック・ラビから提起されている。

参考資料:Rabbi Loren, “Very Serious Problems With The Union Of Messianic Jewish Congregations” (Congregation Shema Yisrael)

推進している運動

TJCII (Toward Jerusalem Council II)「第二エルサレム会議に向けて」

ジャスターとティックーンが他の諸団体と協力して取り組んでいる大きなプロジェクトの1つ。初代教会のユダヤ人中心の教会が異邦人を異邦人のままで受け入れたように、現代の異邦人中心の教会がユダヤ人をユダヤ人のままで受け入れ、ユダヤ人と異邦人の和解と一致を実現するという目標を掲げて活動している。この運動の趣旨はすばらしいが、ティックーンの教えを背景にながめると、まったく違った景色が見えてくる。この点については関連記事をお読みいただきたい。

Webサイト:https://www.tjcii.org/

関連記事:Q&A「TJCII(第二エルサレム会議に向けて)は聖書的な運動ですか?」

注意が必要な教え

二契約神学

二契約神学とは、ユダヤ人はアブラハム契約とモーセ(シナイ)契約により、異邦人はイエスによってもたらされた新しい契約により救われるとするもの。そのため、ユダヤ人はイエス(イェシュア)を信じなくても救われるということになる。これはヨハネ14:6、使徒4:12などに反する非聖書的な教えで、ユダヤ人に伝道する動機を奪う神学である。ジャスターはユダヤ人に対する伝道は必要だと主張するが、実質的には二契約神学を受け入れている。

誰が地獄に行って、誰が地獄に行かないかを決める古い福音派の考え方は再検討の必要があると思う。ユダヤ人は、アブラハム契約とモーセ契約の時代には、アブラハム契約やモーセ契約に応答することで救われた。……ユダヤ民族が旧約時代に神との交わりを許され、永遠のいのちを与えられたのであれば、今はその可能性がないとなぜ言い切れるのだろうか。 ― Dan Juster, Jewish Roots: Understanding Your Jewish Faith (Revised Edition) (Destiny Image, 2013), pp.222-223

【原文を読む】

However, I think we must reexamine the older evangelical certainty of being able to determine just who is and who is not hell-bound. Jews were saved under the period of the Abrahamic and Mosaic covenant through their response to the covenants….If Jewish people were granted fellowship with God and everlasting life in the Older Covenant period, why should it be precluded now?

今もユダヤ人は旧約聖書を信じるだけで救われる。

福音を宣べ伝えることで救われるチャンスが最も大きくなる。しかし、旧約聖書(タナハ)に記された神の啓示にユダヤ人が信仰によって応答する可能性がないとは言い切れない。 ― Dan Juster, Jewish Roots: Understanding Your Jewish Faith (Revised Edition) (Destiny Image, 2013), p. 224

【原文を読む】

The preaching of the Good News maximizes the opportunity of salvation. However, we cannot preclude the possibility of Jews responding in faith to God’s revelation in the Tenach.

ユダヤ人はアブラハム契約を信じるだけでイエスとつながることができる。

ユダヤ人がアブラハム契約に信仰による応答をすることでイェシュアとつながることは可能である。 ― Dan Juster, Jewish Roots: Understanding Your Jewish Faith (Revised Edition) (Destiny Image, 2013), p. 227

【原文を読む】

We have also argued that it is possible for a Jew to respond in faith to the Abrahamic Covenant and be connected to Yeshua.

関連記事:Q&A「ユダヤ人は、イエス(イェシュア)を信じなくても、今も旧約聖書の契約に応答することで救われるという教えは聖書的ですか?」

参考資料:Michael Nissim, “‘Apostle’ Dan Juster and the Salvation of the Jews,” NARWatch Israel

使徒の権威の強調

信徒を支配する権威

1テサロニケ4:2 ― 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。

……現代の使徒はどの程度まで命令することができるのだろうか。確かなのは、みことばで要求されていることはすべて命じることができるということである。みことばに明示されていなくても、明らかに読み取れることなら適用できるだろうか?従順には限度があるのだろうか?この点は十分には説明されていないが、使徒の権威は、西洋式の個人の独立よりもはるかに大きいことは確かである。 ― Dan Juster, Apostolic Authority & Authority (Tikkun International, 2017), P.27

【原文を読む】

…To what extent can an apostle command today? Certainly all that is required by the Word. Can it also include application that are clearly implied? What is limit of obedience? This is never fully worked out, but the authority is much greater than western independence.

罪の赦しを宣言する権威

ヨハネ20:19~23 ― その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」 20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

ここでイェシュアは、つなぐことと解くこと(訳注:マタイ18:18参照)の別の次元を使徒たちに示している。使徒たちは、メシアの犠牲を背景に、告白と悔い改めを条件にして赦しを宣言することができた。これは十二使徒だけに与えられたものだろうか?それとも、将来の使徒たちに、また教会を治める長老全員に与えられたものだろうか?これが効果的に行われるには、歴史的教会(訳注:カトリックや正教会)がそう認識してきたように、各地域のキリストのからだで教会を治めている長老に当てはめる必要があるように思える。 ― Dan Juster, Apostolic Authority & Authority (Tikkun International, 2017), p.10

【原文を読む】

Here Yeshua gives another dimension of binding and loosing to the Apostles. They can announce forgiveness on the basis of confession and repentance in the light of the Messiah’s sacrifice. Is this only given to the Twelve, or to future apostles, or to all who have governing eldership. It would appear that for this to be effective, that it must be applied to the governing eldership of the Body in each locality as the historic churches perceived [Catholic, Orthodox, Anglican, etc.].

後の雨運動の影響

後の雨運動は、米国のアセンブリー教団によって異端とされた教えだが、その中心的な教えである「顕現した神の子たち(Manifest Sons of God)」の教えをジャスターも奉じている。

復活が起こる前に、私たちが顕現した神の子どもにならないとしたら、復活の体で地上を歩き回らないとしたら、あとはイェシュアが来られてすべてを成就するのを待つだけになるのでしょうか。いいえ、それも間違いです。イェシュアが祈られたような一致と現れが、復活の手前で実現するという次元があるのです。それが、携挙と栄光の体に至るために必要なステップなのです。『彼らがみな一つとなるためです…わたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください』。これが、神の子どもたちの顕現なのです。『またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです』(ヨハネ17:22)。 ― Dan Juster, Israel, the Church and The Last Days (Destiny Image, 2011), p.77-78

【原文を読む】

If we will not be the manifest Sons of God before the resurrection, if we are still not walking about in the resurrection body, is the alternative simply to await until Yeshua comes in order that all this will take place? No, this is also a mistake! There is a dimension of coming into that place of unity and manifestation Yeshua prayed for on this side of the resurrection that is a necessary step to lead to the Rapture and the translation. “That they might be one…that they might be with me where I am.” This is the manifestation of the sons of God. “That they might be one” — in the glory which He has given us on this side of the resurrection. Jesus said He has given the glory (John 17:22)!

関連記事:Q&A「終わりの時代のクリスチャンは、死ぬことがない栄光の体をこの地上で受けるという教えは聖書的ですか?」

使徒継承と教会指導者の正統性に関する教え

聖書よりも教会の権威を重視する使徒継承を支持

しかし、ここで多くの福音派信者にとってなじみのない教会統治の一形態について考察し、そこから上がってくる質問を投げかけてみたい。それは、使徒の流れを継承すると言われている司教(bishop)3による統治体制である。ここで言っているのは、監督(bishop)を置き、部分的に監督制を採用しているメソジスト派やルター派のことではない。私が言っているのは、使徒の権威が司教と呼ばれる後継者に受け継がれてきたと理解している諸教派のことである。このように信じている教派には、ローマ・カトリック教会、東方正教会、聖公会、モラビア派がある。こうした教派の指導者は、初代の使徒は特別であると認めているが、使徒は後継者に按手を行って権威を継承し、それが今日に至るまで続いていると論じてきた。これが使徒継承の教理である。 ― Dan Juster, Apostolic Authority & Authority (Tikkun International, 2017), p.52

【原文を読む】

However, I desire that we would ask some questions arising from reflecting on a form of government that many Evangelicals find foreign – the government of bishops who are claimed to be in succession to the apostles. I am not here speaking of Methodists ad Lutherans who have bishops and a partially episcopal government. I am rather speaking of those denominations that understand apostolic authority to have passed down to successors who were called bishops. Those denominations that believe this are the Roman Catholic, Eastern Orthodox, Protestant Anglican-Episcopalian, and Moravian. While recognizing that the original apostles were unique, the leaders of those denominations have argued that the apostles laid their hands on successors and so on until this day. This is the doctrine of apostolic succession.

使徒継承を支持。

途切れることなく行われている[使徒]継承によって、[教会指導者の]正統性が保たれていることをはっきりと見てとることができる。使徒継承を行う教会は、十分な論拠を持っていると考える。 ― Dan Juster, Apostolic Authority & Authority (Tikkun International, 2017), p.54

【原文を読む】

However, legitimacy is still clearly seen according to an unbroken succession. I think that the succession churches have a strong argument.

歴史的教会(カトリック、正教会など)の使徒継承とカリスマ派の超自然的な使徒の任命を組み合わせた教会統治を提唱

一般的に、使徒と預言者を信じるカリスマ派信者は、司教と使徒の関係性を立ち止まって考えることすらしない。…それよりも、使徒は超自然的な預言、しるしと不思議、実りのある宣教、人々による認証、その他の条件の組み合わせによって神から選ばれると思われている。…たとえば、ピーター・ワグナーの著作には使徒の権威についてカリスマ派が持つ考え方が反映されており、使徒は聖霊によって選ばれ、その人に付き従う人々が聖霊によって見分けるものとしている。 ― Dan Juster, Apostolic Authority & Authority (Tikkun International, 2017), p.55

【原文を読む】

Generally, charismatics who believe in apostles and prophets do not even give much pause to consider the relationship of bishops to apostles… Rather, apostles are seen as chosen by God and confirmed by supernatural prophecy, signs and wonders, fruitful ministry and oversight, or some other combination of criteria… For example, Peter Wagner’s book reflects an apostolic authority that is charismatic in its derivation, chosen by the Spirit, and discerned in the Spirit by those who follow.

カリスマ派と歴史的教会(カトリック、正教会など)の統合

使徒または司教の任命について、使徒継承とカリスマ派の教理が統一されて1つになったらどうだろうか。そのような回復(レストレーション)が実現することは可能だろうか。カリスマ聖公会のような教団が、そのような理解を持って実践に移し始めたらどうなるだろうか。アジアやアフリカの聖書的に真実な聖公会がそのように理解し、カリスマ的な真理を実践に移し始めたらどうなるだろうか。カリスマ派の使徒がそのような教団から按手を受けて使徒継承に連なればどうなるだろうか。[町に教会組織が1つしかない新約時代にような]「町の教会(Church of the City)」で両方のグループが一致協力し、町の長老会を形成したらどうなるだろうか。その後、そのように地歩を固めてからほかの人々に参加を呼びかけたらどうなるだろうか。そのようなことはリバイバルの中でしか起こりようがないが、その可能性はヨハネ17章に見ることができる。そうなると、使徒継承に立つ人々とカリスマ派の人々が、互いにへりくだって相手の真理と視点を受け入れることになる。 ― Dan Juster, Apostolic Authority & Authority (Tikkun International, 2017), p.58

【原文を読む】

What if succession and charismatic doctrine for the choice of apostles or bishops became unified? Is it possible that we could see such a restoration? What if a group like the Charismatic Episcopal Church began to so understand and practice? Or what if Anglican churches which are Scripturally true in Asia and Africa began to so understand and practice charismatic truth. What if charismatic apostles began to receive the laying on of hands from such a body so as to be in succession? What if the Church of the City merged both groups into a united presbytery of the city? Then from that vantage what if others were invited to join? This could only happen in revival, but one can see the potential from John 17. It would mean that successionists and charismatics would humble themselves to each other and receive the truth and perspective of the other.

使徒的教会の任命を受けなければ教会指導者になれない

新約聖書のみことばによると、地域会衆は独立した存在であるべきではない。 ― Dan Juster, “Apostolic Order” (Revive Israel)

【原文を読む】

According to New Covenant Scriptures, local congregations are not to be independent.

使徒の権威を認める必要がある。

クリスチャンの世界では、個々の会衆が地域教会と呼ばれています。しかし、そのような会衆を新約聖書が言うところの地域教会と呼ぶことにはかなり無理があります。新約聖書では、どれだけ規模が大きくても小さくても、家の教会や大きな集会がいくつ持たれていても、各地方に1つの会衆しか存在していないからです。現在地域教会と呼ばれているものは、統治機構という観点では、新約聖書の時代には存在しなかったものです。…いかに簡素でゆるやかな組織しか持たない交わりでも、権威というものが存在する事実に注目することが大切です。チームの性質に応じて、特に町の使徒チームに対して、一定の権威を認める必要があるのではないでしょうか。 ― Dan Juster, Apostolic Authority & Authority (Tikkun International, 2017), p.51

【原文を読む】

….a congregation is called a local church in Christian circles. The idea that such congregations are what the New Testament means by a local church is quite a stretch, for in the New Testament there was only one congregation of each locale, no matter how large or small, and no matter how many house meetings or larger meetings were held. What people today call the local church did not exist in the New Testament with regard to government, though some congregations between the size of the city congregation and the house group may have gathered like synagogues in the ancient world… it should be noted that even a fellowship of the loosest character has government… It’s important to pay attention to the fact that even in a fellowship with a basic and loose organization there still is authority. Is it necessary to recognize a certain authority in terms of the kind of team, even an apostolic team in the city?”

単立教会が存在する余地はない。

そうなると、認められた権威から任命を受けることなく、自分で看板を立てて自分のことを牧師やラビと呼ぶ権利があると考える人々はいなくなる。 ー Dan Juster, Apostolic Authority & Authority, Tikkun International, 2017, p.58

【原文を読む】

It would also mean the end of people thinking they have a right to set up a shingle and call themselves pastor or rabbi without serious confirmation by recognized authority.

写真出典:https://www.youtube.com/watch?v=ICTbCbgODiw (Creative Commonsライセンス) のスクリーンショット


  1. 訳注:メシアニックジューは、教会から迫害を受けた過去の経緯から、信者の集まりを「教会(church)」とは呼ばず、代わりに「会衆(congregation)」と呼ぶ。 
  2. ピーター・ワグナーは著書で、ダン・ジャスターについて次のように言及している。「神は、ペテロを『割礼を受けた者』ユダヤ人の使徒に任命し、パウロを『割礼を受けない者』異邦人の使徒に任命された(ガラテヤ2:7参照)。どちらも同じ地理的な領域(ガラテヤ、アジア地方など)で宣教していたが、一方は主にユダヤ人に、他方は主に異邦人に仕えた。そのような例は、現在ではダン・ジャスターと私に見ることができる。どちらもICA(訳注:多くの現代の「使徒」が所属する世界最大の使徒団体ICALの前身団体)の使徒的評議会(Apostolic Council)の一員で、どちらも米国で宣教を行っているが、ダンは主にユダヤ人に仕え、私は主に異邦人に仕えている」 ― C. Peter Wagner, Apostles Today (Baker Publishing Group, 2012), pp.99-100 (Kindle 版)  
  3. 訳注: 「bishop」はギリシャ語で「エピスコポス」で、新改訳聖書では「監督」と訳されている。採用されている日本語訳は教派で異なり、カトリックでは「司教」、正教会や聖公会では「主教」、プロテスタント諸教会では「監督」と呼ばれている。ここでは主に「司教」と訳す。