米国を揺るがす「批判的人種理論」とは(1)イントロダクション
現在、米国では「批判的人種理論(Critical Race Theory:CRT)」と呼ばれる理論をめぐって議論が沸騰しています。この理論は、教育、政治、軍、司法など、さまざまな分野で議論と対立を巻き起こしており、キリスト教会も例外ではありません。今回は、この批判的人種理論とは何か、またこの理論が米国の教会にどのような影響を及ぼしつつあるかを見ていきたいと思います。このテーマはシリーズで取り扱い、次回以降の記事で今回の内容をさらに深めていく予定です。
批判的人種理論をめぐる論争の発端
全米で批判的人種理論に注目が集まるようになったきっかけは、2020年9月にトランプ大統領が連邦政府の機関で同理論を教えることを禁止する大統領令を出したことでした。トランプ大統領は、批判的人種理論を「アメリカは邪悪な人種差別国家だと主張するマルクス主義の教義」と呼び、同理論を厳しく批判しています。
また、批判的人種理論の危険性を訴え、トランプ大統領の意思決定にも影響を与えたと言われる保守派の活動家、クリストファー・ルフォは、「批判的人種理論は西欧文明にとって最大の脅威であり、米国の連邦政府、軍、司法制度にまで浸透している」と警告しています。
批判的人種理論をめぐって分裂する教会
批判的人種理論の影響は、教会にも及んでいます。大きく報道されたものだけでも、次のような論争や問題が起こっています。
南部バプテスト連盟の内部分裂
米国福音派最大の教派である南部バプテスト連盟(Southern Baptist Convention)では、2019年6月の大会で批判的人種理論をめぐって内部対立が起きています。事の発端は、批判的人種理論が加盟教会や神学校の一部に浸透していることを危惧した有志の牧師が、大会で採択する決議案を提出したことでした。この決議案では、批判的人種理論を「聖書の教えと合致しない」として公式に否定することを求めていました。しかし、決議案を決議委員会にかけた結果、当初の決議案は骨抜きにされ、逆に批判的人種理論の持つ役割を肯定し、人種問題を分析する上で有益な「分析ツール」として採用するという正反対の決議案が採択されました。
この問題をめぐる対立は、これで終わったわけではありません。その後も批判的人種理論をめぐる論争は続いており、2020年11月には南部バプテスト連盟に属する6つの神学校の校長が共同で声明を出し、批判的人種理論はバプテストの信仰とは相容れないものとして、公式に否定しています。また、その声明に反発した黒人牧師と教会が南部バプテスト連盟を脱退するなど、対立は今も収まる気配を見せていません。
キャンパス・クルセードの内部批判文書
2021年6月には、米国キャンパス・クルセード・フォー・クライスト(現Cru)で、批判的人種理論をめぐって指導部を批判する内部文書が出回っていることが報道されています。この内部文書では、キャンパス・クルセードの使命と現在の活動との間には「ずれ」があることが指摘され、批判的人種理論に基づいて人種差別や抑圧の問題に取り組む現在のキャンパス・クルセードのアプローチは、本来の使命からずれてしまっていると批判されています。この文書は次のように述べています。
多様性を追求するあまり、私たちはうかつにも聖書に反する考え方の体系(訳注:批判的人種理論のこと)を採用してしまい、一致を失う事態に陥りました。この考え方は、不信感、落胆、その他多くの問題を生み出しています。
【原文を読む】
In pursuing [diversity], we have inadvertently adopted a system of unbiblical ideas that have led us to disunity. These concepts have created distrust, discouragement, and a host of other problems.
ジョシュ・マクドウェルの引退表明
ほかにも、2021年9月には、キリスト教弁証家のジョシュ・マクドウェルが、批判的人種理論に関する発言の中で行った失言の責任を取り、みずからが代表を務めるミニストリーからの引退を表明しています。マクドウェルは、世界のキリスト教会が今直面している中で最も大きな問題は批判的人種理論であると語った後、その説明の中で黒人に対する失言を行い、批判を受けて引退を表明する結果となりました。一つの失言で引退という決断に追い込まれたこの事件を見ても、批判的人種理論を背景とする人種差別に対する意識の高まりを感じます。
批判的人種理論とは何か
それでは、このような強い反発を招いている批判的人種理論とは、一体どのようなものなのでしょうか。詳しい定義は次回に取り上げますが、ここでは概要を簡単に説明したいと思います。
批判的人種理論の概要
批判的人種理論の主張は、以下の3つの点にまとめることができます。
(1)すべての人を2つのグループに分ける
批判的人種理論では、人々を2つのグループに分けます。本来の批判的人種理論は、人々を「白人」と「有色人種」に二分します。これに「インターセクショナリティ(交差性)」という概念が加わり、「性別」を基準として男性と女性、「性的指向」を基準として異性愛者と同性愛者など、さまざまな基準で人々を二分します。
(2)権力を持つグループは、権力を持たないグループを抑圧する
批判的人種理論は、人々をグループで二分し、権力を持つグループは権力を持たないグループを抑圧する、つまり抑圧する側と抑圧される側に分かれると主張します。たとえば、白人と有色人種の間には、抑圧する側の白人と、抑圧される側の有色人種という関係があると主張します。
(3)個人ではなく、社会構造と体制を批判する
批判的人種理論は、個人ではなく、社会構造や政治体制を批判します。個人ではなく、社会構造が原因となっている人種差別を構造的人種差別(systemic racism)と呼び、この撤廃を求めます。
そして、上記3つの主張に基づいて、抑圧する側にいる人々は、自分が差別する側にいることを自覚し、差別が存在することを認識する必要があるとします。そうした「見えない差別」があることを認識し、行動する人のことを「Woke(目覚めた人)」と呼びます。
MEMO
現在、米国の企業や官公庁では、批判的人種理論を取り入れた研修が「多様性トレーニング(diversity training)」等の名称で実施されています。また、教育現場でも、一部の地域では批判的人種理論に基づくカリキュラムが小学校から教えられています。
何が問題なのか
それでは、トランプ大統領や米国の保守派の人々が批判的人種理論を問題視するのはなぜなのでしょうか。主に2つの理由が挙げられます。
(1)白人への逆差別である
批判的人種理論では、白人というだけで「抑圧者」と呼ばれます。そのため、白人は白人であることに劣等感を抱くようになります。自分自身は奴隷を所有したことも人種差別をした覚えもないのに、白人であるだけで人種差別者扱いされるのは不当だという思いです。
(2)マルクス主義に基づいている
マルクス主義は、共産主義と無神論の思想体系です。米国は、長年ソ連の共産主義と戦っていた自由主義陣営の盟主です。その米国が共産主義に侵食されているのであれば、特に保守派のアメリカ人にとって許しがたい状況です。また米国は創造主を信じるキリスト教徒が数多い国です。そのため、マルクス主義に対しては強い反発があります。
批判的人種理論はマルクス主義思想か
この点については、論争があります。ただ、批判的人種理論はマルクス主義に基づく思想であると考えられます。以下にその理由を挙げます。
提唱者
批判的人種理論を最初に提唱したのは、ハーバード・ロースクールの法学教授、デリック・ベル(Derrick Bell, 1930~2011年)です。デリック・ベルは、米国の法律制度にある「見えない人種差別」について研究し、『Race, Racism, and American Law(人種、人種差別、そしてアメリカ法)』(1987年)という、現在では米国のロースクールで学ぶ定番の教科書にもなっている著書を残しています。
このデリック・ベルは、マルクス主義者とのつながりが指摘されています。左派運動の研究者トレバー・ラウドン(Trevor Loudon)によると、デリック・ベルが寄稿していた『Freedomways』という雑誌は、米国共産党のメンバーとシンパが設立した団体による発行です。同団体は、ソ連と中国の共産党から資金援助を受けていたことが明らかになっています。また、ベルは、ソ連が設立した「国際民主法律家協会( International Association of Democratic Lawyers)」の米国における関連団体である「全国黒人法律家協議会(National Conference of Black Lawyers)」の設立者の一人にもなっています。
思想の源流
デリック・ベルが提唱した批判的人種理論は、批判的法学理論と呼ばれる研究から発展したものです。批判的法学理論は、ドイツの哲学者マックス・ホルクハイマーが提唱した批判理論から派生した学問分野です。ホルクハイマーは、ナチスドイツの迫害を逃れて第二次世界大戦前に米国に移住したフランクフルト学派と呼ばれるマルクス主義者の一人です。このように、批判的人種理論は、源流をたどるとマルクス主義に行き着きます。
以上は、批判的人種理論がマルクス主義に基づくことを示す状況証拠ですが、次回の記事では批判的人種理論の内容に踏み込んで検証していきたいと思います。
まとめ
今回紹介したように、米国では、批判的人種理論をめぐり、さまざまな領域で社会を二分するような対立が生まれています。この問題は、米国にとどまるものではなく、日本にもいずれ影響が出てくると思われます。
まず、この内部対立によって米国が分裂し、弱体化すれば、同盟国である日本にも直接的な影響があります。また、日本にも、LGBT問題など、批判的人種理論が対象にする問題があります。そして最も重要な点は、批判的人種理論が教会のあり方を変えてしまう可能性があることです。
現在は、さまざまな新しい教えが出回り、何を信じればよいのか判断が難しい時代です。しかし、クリスチャンには聖書という永遠に変わらない真理が与えられています。使徒の働きでは、パウロの語ったことが本当かどうか、聖書を開いて毎日調べたベレアの町の人々が称賛されています(使徒17:11)。私たちも、新しい教えを聖書と照らし合わせて判断することが求められています。ピリピ1:9~11で、パウロは次のように語っています。
9 私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、 10 あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、 11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。
パウロが語るように、クリスチャンの成長にとって識別力は欠かせません。次回の記事では、批判的人種理論の本質を正しく見定めるために、同理論が具体的にどのようなことを教えているか見ていきたいと思います。
この記事を書いた人:佐野剛史
参考資料