聖書信仰の見張り人たち

聖書信仰の見張り人たち

現代にも使徒はいるのですか?

2020.03.15 教会論 

目次

現代の「使徒」の主張

使徒は、初代教会だけにいたわけではない。今までは初代教会以降に使徒はいないと言われてきたが、そうではない。今は、使徒が教会に回復しつつある「第二の使徒の時代」である。

具体例

使徒は現在も教会にいるのだろうか?…現代にも使徒がいるかもしれないという考えは、私が学んでいた神学校では一度も話されたことがなく、そのようなことをほのめかす言葉すら聞いたことがなかった。十二使徒にはただ一つの一度限りのミッションが与えられ、使徒がすべて死んでいなくなるまでにそのミッションは完了したと教えられた。使徒が地上で活躍する短い時代は終わったというのである。その結果、私は教会の誕生から100年ほどで使徒はいなくなったのだと思い込み、神学校を卒業した。しかし、そうではない!私たちは今、教会に歴史上で最も画期的な構造的変化が起きている時代のただ中に生きている。私はそれを「第二の使徒の時代」と呼びたい。1

― C・ピーター・ワグナー(新使徒的宗教改革(NAR)の思想的指導者)

【原文を読む】

Are there apostles in our churches today? …The notion that there could be contemporary apostles never came up in the seminaries I attended, not even as a suggestion. We were taught that the original 12 apostles had a singular, one-of-a-kind mission that was completed by the time of their deaths, and that was that—the end of the brief life of apostles on Earth. Consequently, I graduated assuming that apostles did not continue long after the first hundred years or so of the Church. Not so! We are now living in the midst of one of the most epochal changes in the structure of the Church that has ever been recorded. I like to call it the “Second Apostolic Age.”

実際

使徒は、初代教会の使徒がすべて死んだ時点で地上からいなくなった。聖書によると、初代教会以降に使徒が出ることは想定されていない。現在の「使徒」は、すべて自称「使徒」であり、にせ使徒である。

解説

現代に使徒がいるという教えは、聖書から逸脱しています。その理由を、以下に述べます。

現代に使徒を回復する必要があると訴える「新使徒的宗教改革(NAR)」の指導者は、現在にも使徒がいると主張します。しかし、聖書を読むと、現在に使徒がいるという主張には以下のような問題点があることがわかります。

新約聖書には、教会が使徒を選び、任命するための規定がない

現代の使徒運動が抱える大きな問題の一つは、新約聖書には、使徒をどのように選び、任命するかという規定が存在しないことです。

新約聖書には、教会が監督、長老、執事をどのように選び、任命するかについては明確な規定があります。たとえば、監督・長老の任命について、パウロはテトスに次のような指示を与えています(テトス1:5~9)。

5 私があなたをクレタに残したのは、残っている仕事の整理をし、私が命じたとおりに町ごとに長老たちを任命するためでした。 6 長老は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、子どもたちも信者で、放蕩を責められたり、反抗的であったりしないことが条件です。 7 監督は神の家を管理する者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、乱暴でなく、不正な利を求めず、 8 むしろ、人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、 9 教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。

このように、監督、長老、執事については、新約聖書には明確な選定基準と任命方法が定められています(1テモテ3:2~13も参照)。わかりやすく明快な規定です。ところが、教会の最も重要な機関として挙げられ(1コリ12:28)、監督や長老が従うべき存在である使徒をどうやって選び、任命すればよいのかについては、新約聖書は何も語っていないのです。

新約聖書は、にせ使徒に警戒するように教えている

聖書は、教会が使徒を任命する方法については沈黙している一方で、にせ使徒に警戒するよう教えています(2コリント11:13~15)。

13 こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。 14 しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。 15 ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。

ここでパウロは、キリストの使徒に変装しているにせ使徒がいると警告しています。にせ使徒に警戒するには、まずは本物の使徒の特長をつかんでおく必要があります。そこで、次は新約聖書に記されている使徒に共通する条件を確認し、本物の使徒の特徴をしっかりと見ておきましょう。

新約聖書の使徒には、共通する条件がある

新約聖書に書かれている使徒に共通する条件を見ていくことで、使徒とはどういう人で、どのような働きをするのかが見えてきます。使徒の共通条件には、以下の3つがあります。

(1)しるしと不思議が伴う

使徒の共通点の一つは、その働きにはしるしと不思議が伴うという点です。パウロは2コリント12:12でこう語っています。

12 使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間で行われた、しるしと不思議と力あるわざです。

現代の使徒を自称する人々に、この聖句のパウロのように主張できる人がいるでしょうか。冒頭で紹介したC・ピーター・ワグナーが、そのような奇跡を行ったということは聞いたことがありません。また、いやしや奇跡を行ったと主張する現代の「使徒」と呼ばれる人々はいますが、医学的な証拠を出すように求めると、まったく根拠のない主張だったとわかるということがよくあります。

MEMO

たとえば、2008年4月にフロリダのレイクランドで始まったとされるレイクランド・リバイバルで、NARの伝道者トッド・ベントレーがさまざまないやしを行ったと主張されました。それに対し、米国のキリスト教雑誌『World』はベントレーにいやされた人のリストを出すように求めました。かなりの時間が経ってから送られてきたリストに記載されていた人の多くは、その後いやされたはずの病で死亡していました。米国のテレビ局ABCのニュース番組「Nightline」がさらに追跡調査を行った結果、医学的に実証できるいやしは1つとしてなかったという結論を出しています。2

神に祈った結果、奇跡としか思えないようなことが起こるというのは実際にあることです。クリスチャンとして何度もそういう証言を聞いてきましたし、自分自身も体験してきました。しかし、パウロが言う「しるしと不思議と力あるわざ」とは、それとは次元が異なるものです。使徒19:11~12は、パウロが行っていた奇跡を次のように記録しています。

11 神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。 12 パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。

また、使徒5:12~16では、ペテロが行っていた奇跡を次のように描写しています。

12 また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。… 15 人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。 16 また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。

ここで注目してほしいのは、悪霊につかれている人や病人が全員いやされたという点です。誰かのために神にいやしを祈り、実際にその人がいやされるということはありえます。しかし、それをもって使徒であることの「しるし」であると言うことはできません。聖書に書かれているような誰の目にも明らかな「しるしと不思議」を行う人は、紀元1世紀の使徒以来いたことがありませんし、今日もいません。

ただ、もし仮にそのような奇跡を行う人が現れたとしても、それだけで使徒と言えるわけではありません。使徒として認められるには、次の2つの条件が残っているためです。

(2)主から直接任命された

新約聖書で使徒の任命について記されている箇所を見ると、使徒はみな、人間を介さず、主イエス(および父なる神)から直接任命を受けていることがわかります。

1)十二使徒

ペテロをはじめとする十二使徒は、イエスが地上生涯を歩まれている間に、イエスから直接任命されました(ルカ6:12~13)。

12 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。
13 夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。

2)マッテヤ(十二使徒の補充)

十二使徒のうちのイスカリオテのユダは、イエスを裏切り、自殺してしまったので、その穴を埋める必要がありました。そこで12人目の使徒として任命されたのが、マッテヤです。マッテヤの任命は使徒1:21~26に記されています。

21 ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、 22 すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」
23 そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。
24 そして、こう祈った。「すべての人の心を知っておられる主よ。 25 この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。」 26 そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。

公生涯の最初からイエスと行動を共にし、イエスの復活を目撃したという条件を満たす人物として、候補はヨセフとマッテヤという2人に絞られました。そこでくじを引いたところ、マッテヤにくじが当たったので、マッテヤが使徒として任命されました。3

MEMO

十二使徒には、メシア的王国(千年王国)でイスラエル十二部族を治めるという役割が与えられていますので(ルカ22:30)、欠員を埋めて12人にする必要がありました。十二使徒の名前は、新しいエルサレム(新天新地)の土台にも刻まれます(黙21:14)。

ここで注意が必要なのは、新約聖書で使徒が補充された例はここ以外にないという点です。実際に、使徒12章でヨハネの兄弟である使徒ヤコブが殺された時には、代わりの使徒を立てようという話にはなっていません。初代教会の直後の教会教父の時代にも、死んだ使徒の代わりに新しい使徒を任命したという記録はありません。

3)パウロ

十二使徒の任命方法は以上でわかりましたが、十二使徒ではない使徒パウロはどのように任命されたのでしょうか。パウロが使徒に任命された経緯は、使徒の働き9章に詳しく書かれていますが、パウロ自身はその体験をガラテヤ1:1で次のようにまとめています。

1 使徒となったパウロ──私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです──

パウロは、自分が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、神(イエス・キリストと父なる神)によるものだと語っています。それは、十二使徒にも、マッテヤにも言えることです。

以上のように見てくると、新約聖書に記されている使徒の任命について、次のことが言えます。

  1. 使徒は、神から直接任命されるので、人に任命されるものではない。また人が介在することもない。4
  2. 十二使徒も、パウロも、主イエス(および父なる神)によって任命された。現代の使徒が言うような、聖霊によって任命された例は聖書に出てこない。
  3. 新約聖書に、教会が使徒をどうやって選び、任命するかということが記されていないのは、使徒は神が直接任命するもので、人が介在する余地がないためということがうかがい知れる。

このように見てくると、使徒の任命について次のように語るC・ピーター・ワグナーの言葉には違和感を覚えざるをえません。

私は、使徒に言及するときに「自分で任命した(self-appointed)」とか「自称」といった形容詞を付けるジャーナリストに強く反対する。本物の使徒は、自分で任命しないものだ。第一に、その人たちには、神から主の働きを行う賜物が与えられている。第二に、賜物とその実は同僚によって認められるもので、使徒は、他の尊敬され、資格のあるリーダーたちによって使徒職に「据えられる」あるいは「任命される」のだ。5

【原文を読む】

I strongly object to journalists using the adjective “self-appointed” or “self-declared” when referring to apostles. No true apostle is self-appointed. First of all, they are gifted by God for that ministry. Secondly, the gift and its fruit are recognized by peers and the apostle is “set in” or “commissioned” to the office of apostle by other respected and qualified leaders.

これを読んで思うのは、「他の尊敬され、資格のあるリーダーたち」に使徒を任命する権限があるのか、ということです。その人たちはどうやってその「資格」を得たのでしょうか。

聖書によると、使徒は周囲のリーダーではなく、神から直接任命されるものです。現代の「使徒」は、たとえ「自分で任命した(self-appointed)」のではなくても、少なくとも「人間が任命した(human-appointed)」とは言えます。それは、聖書が言う使徒とはまったくの別物で、まさに「にせ使徒」です。

(3)復活したイエスを目撃している

使徒に共通するもう一つの条件は、復活したイエスを目撃していることです。使徒パウロは、1コリント9:1で次のように語っています。

1 私には自由がないでしょうか。私は使徒ではないのでしょうか。私は私たちの主イエスを見たのではないでしょうか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。

ここでパウロは、自分が使徒であることの根拠として「主イエスを見た」ことを挙げています。

パウロは、1コリント15:7~8では次のように語っています。

7 その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。 8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。

パウロは、この2つの箇所で、自分が使徒であることの証拠は復活のイエスと出会ったことであり、使徒は全員復活のイエスと出会っていると証言しています。つまり、パウロは、復活のイエスに会っていることが、使徒の条件であると考えているのです。

また、この箇所では、キリストは使徒全員に現れたが、その中で自分が最後だともパウロは語っています。使徒の条件の1つが、復活のイエスを目撃したことで、1コリント15:8で言うように、パウロが復活のイエスを目撃した使徒集団の最後の一人であるとすれば、パウロ以降、使徒は一人も出ていないことになります。

MEMO

現代の使徒を名乗る人の中にも、「私はイエスを見た」と言う人がいます。しかし、問題は誰がそれを証明するのかということです。十二使徒はイエスと公生涯を共にし、お互いがお互いの証人ですから、この点は問題ありません。パウロの場合も、ダマスコ途上でイエスに出会った時には同行者がいてイエスの声を聞いています(使徒9:7)ので、問題はありません。また、パウロに会いに行けと主から命じられたアナニヤ(使徒9:10~17)も、パウロの証言が真実であると証明することができます。ところが、現代の「使徒」と呼ばれる人で、イエスと会ったという主張を客観的に証明できる人はいないのです。

また、使徒を名乗る人の多くはレストレーション主義者で、使徒3:21を根拠にして、使徒が中心になって教会が一致して完成するまでイエスは再臨できず、天にとどまっていなければならないと教えています。そのため、今地上でイエスに出会ったとしたら、自分が教えていることと矛盾することになります。

使徒はイエスが復活したことの証人

このことに関連して使徒の働きで繰り返し出てくるのが、使徒が「イエスの復活をあかし(証言)した」という記述です(使徒2:24~32、3:15、4:2、4:10、4:33、5:30~32、10:39~41、13:30~37、17:3、17:18、17:31、26:8、26:23)。マッテヤを使徒に任命した先ほどの場面(使徒1:22)では、次のように言われていました。

22 すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。(強調筆者)

ここでペテロは、使徒の重要な役割は、イエスの復活の証人になることと考えていたことがわかります。

このように見てくると、新約聖書が使徒職の継承や任命について語っていないのは、「イエスの復活の証人となる」という使徒の役割を考えると自然なことだということがわかってきます。イエスの復活の証人となるには、イエスの死、埋葬、復活という歴史的事実に立ち会っている必要があります。つまり、使徒はイスラエル(パレスチナ)の地に、紀元30年頃に生きていた人物である必要があるという、地理的、時間的制約があるのです。使徒職を後代に継承していくための基準と手順が新約聖書に定められていないのは、それも理由の1つであると考えられます。

まとめ

以上、現代の使徒運動について、「現代に使徒はいるのか」という視点で聖書的に検証してみました。その結果は、次のようにまとめることができます。

  • 新約聖書は、教会が使徒をどのように選び、任命するかという方法を記していない。
  • 新約聖書に記されている使徒には(1)しるしと不思議が伴う、(2)主から直接任命されている、(3)復活したイエスを目撃している、という3つの共通する条件がある。
  • 現在、上記の3つの条件を満たす人は存在しない。

つまり、現在では、聖書的に自分は使徒だと主張できる人はいません。

この記事を書いた人:佐野剛史

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  1. C. Peter Wagner, Apostles Today (Baker Publishing Group, 2012), p.6 (Kindle 版) 
  2. Cameron Buettel and Jeremiah Johnson, “False Apostles and the Case of Todd Bentley,” Grace to You (November 20, 2013) 
  3. くじは、旧約時代には神のみこころを知る手段として有効でしたので、聖霊が下る前のこの時点では妥当な方法でした(民数記26:56、ヨシュア7:14など参照)。くじというと、日本人はあみだくじのようなものを想像して、いい加減な決め方だと思ってしまうかもしれません。しかし、くじは神のみこころを知る手段として律法にも記されています(レビ16:8、1)。また、イスラエル初代の王、サウルが民の前で選び出された手段はくじでした(サムエル10:20~21)。ただし、使徒2章で聖霊が下って以降、くじを神のみこころを知る手段として用いることはなくなります。 
  4. 十二使徒とパウロ以外の使徒(主の兄弟ヤコブなど)については使徒に任命された経緯は説明されていませんが、パウロは使徒全員が復活のイエスに会っていると証言していますので(1コリント15:7)、主イエスから直接任命を受けていると考えることができます。 
  5. C. Peter Wagner, “The New Apostolic Reformation Is Not a Cult,” Charisma News (August 24, 2011)