聖書信仰の見張り人たち

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ユダヤ人は、イエス(イェシュア)を信じなくても旧約聖書の契約に応答することで救われるという教えは聖書的ですか?

2020.03.06 救済論 

目次

現代の「使徒」の主張

ユダヤ人は、イエス(イェシュア)をメシア(救い主)と信じなくても、旧約聖書の契約(アブラハム契約やモーセ契約)に応答することで救われ、永遠のいのちを受けることができる。

具体例

誰が地獄に行って、誰が地獄に行かないかを決める古い福音派の考え方は再検討の必要があると思う。ユダヤ人は、アブラハム契約とモーセ契約の時代には、アブラハム契約やモーセ契約に応答することで救われた。……ユダヤ民族が旧約時代に神との交わりを許され、永遠のいのちを与えられたのであれば、今はその可能性がないとなぜ言い切れるのだろうか。 ― Dan Juster, Jewish Roots: Understanding Your Jewish Faith (Revised Edition) (Destiny Image, 2013), pp. 222-223

【原文を読む】

However, I think we must reexamine the older evangelical certainty of being able to determine just who is and who is not hell-bound. Jews were saved under the period of the Abrahamic and Mosaic covenant through their response to the covenants… If Jewish people were granted fellowship with God and everlasting life in the Older Covenant period, why should it be precluded now?

福音を宣べ伝えることで救われるチャンスが最も大きくなる。しかし、旧約聖書(タナハ)に記された神の啓示にユダヤ人が信仰によって応答する可能性がないとは言い切れない。 ― 同書p. 224

【原文を読む】

The preaching of the Good News maximizes the opportunity of salvation. However, we cannot preclude the possibility of Jews responding in faith to God’s revelation in the Tenach.

ユダヤ人がアブラハム契約に信仰による応答をすることでイェシュアとつながることは可能である。 ― 同書p. 227

【原文を読む】

We have also argued that it is possible for a Jew to respond in faith to the Abrahamic Covenant and be connected to Yeshua.

実際

聖書は、救いを受け、永遠のいのちを得るにはイエス・キリストを信じるほか道はないと教えている。

解説

MEMO

この記事は長めです。お時間があるときに読むことをおすすめします。

冒頭に引用した文章の著者であるダン(ダニエル)・ジャスターは、新使徒的宗教改革(NAR)を提唱したC・ピーター・ワグナーから「ユダヤ人の使徒」と呼ばれ、イスラエルを中心に使徒運動を展開する著名なメシアニックジュー指導者です1。 ジャスターの主張は「二契約神学」と呼ばれる教えで、「異邦人は新約聖書に記されているイエスの贖いによる新しい契約に、ユダヤ人は旧約聖書に記されているアブラハム契約とモーセ契約に応答することで救われる」というものです。つまり、ユダヤ人はイエス(イェシュア)を信じなくても、旧約聖書によって救われることが可能であるとします。 この神学の問題点は、「わたし(イエス)が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)など、救われる方法はイエスを信じる以外にないと教える数々の聖句と矛盾し、福音派が一般的に信じている救いの教理に反することです。ジャスターは、このキリスト教会の土台とも言える救いの教理に対して、どのような議論を展開して異議を唱えているのでしょうか。

ジャスターの主張

ジャスターはみずからの二契約神学を展開するにあたって、福音派が一般的に信じている救いの教理について次のように語ります。
紀元1世紀に生きて、死に、よみがえったとされているイェシュアを信じる決心を意識的、明示的にしなければ、救いはないと主張する人は多い。聖書にはこの立場を支持する箇所がたくさんあるわけではないが、支持しているように見える聖書箇所はある。2

【原文を読む】

Many hold that unless one consciously and explicitly makes a decision for Yeshua— who is understood as the One who lived, died, and rose again in the first century— there is no salvation. Although Scripture is not teeming with verses to support this position, there are Scriptures that seem to support this view.

「聖書にはこの立場(イエスのみによって救われるという教理)を支持する箇所がたくさんあるわけではない」という言葉は控えめに言っても間違いですが、それはひとまず置いておきましょう。そのように語った後、ジャスターは一般的な救いの教理を支持するように「見える」聖句として、以下の3つを挙げます。 (1)使徒4:12
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。
(2)ヨハネ3:36
御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
(3)1ヨハネ5:12
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
ジャスターの議論は、上記の聖句の一般的な解釈に対して疑問を投げかけることで展開されていきます。 少し細かい議論になりますが、ジャスターの救済論を詳しく検討することで、「ユダヤ人の使徒」と呼ばれるジャスターがどのような聖書観、救済観を持っているかが明らかになっていきますので、一緒に見ていきましょう。

ジャスターの二契約神学の展開と検証

ジャスターは、先ほど挙げた3つの聖句の一般的な解釈に対して、次のように反論します。ここでは、まずジャスターの主張を紹介した後、その内容を検討していくことにします。
(1)使徒4:12について
まず、以下の使徒4:12に関するジャスターの解釈を見ていきます。
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。
通常は、この聖句に基づいて「イエスの御名による以外に救われる道はない」と教えられますが、ジャスターは次のように語ります。
一つ付け加えておく必要があるのは、ペテロがイェシュア以外の名によって救われることはないと語った時に、私たち福音派は死後や次の世に何が起こるかにこだわるあまり、実際にはそう書いていないのに、そのような意味に読み取ってしまう傾向があるということである。それも重要なことではあるが、ペテロはイスラエルの民族的救いや、圧政からの救いという意味でこの言葉を使ったのかもしれないという点を考える必要がある。3

【原文を読む】

I should add that when Peter says there is no other name, and salvation is only found in Yeshua, we tend to read into the text the evangelical preoccupation with what happens after we die or in the Age to Come. This is important, but Peter may well have been using the term as his contemporaries and thinking of the corporate salvation of Israel, deliverance from oppression and more.

つまり、ペテロがこの箇所で語っているのは、イスラエル民族全体の霊的、物理的救いであって、個人の霊的な救いではないというのがジャスターの立場です。 しかし、そのような解釈は、以下の点を考えると無理があります。 第一に、ジャスターは、そう解釈する根拠を何も示していません。「かもしれない」というジャスターの言葉に、そう言い切る根拠がないことが端的に表れています。 第二に、イスラエル民族全体が救われるには、一人ひとりのユダヤ人が救われる必要があります。そのため、個人の救いを除外することはできません。 第三に、ペテロは使徒4章だけでなく、使徒2章、3章でもイスラエルの人々にメッセージを語っていますが、以下に示すように、そのどちらも個人的な救いを語っています。
  • 「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた」(使徒2:41)
  • 「悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます」(使徒3:19)
  • 「あなたがた一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです」(使3:26)。
そのため、使徒4:12を含む使徒4章のメッセージも、同じ文脈にあると解釈するのが自然です。 第四に、イエスは公生涯の中で、当時のユダヤ人指導者に向けて「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます」(マタイ21:43)と語り、エルサレムが敵に包囲されて滅ぶことも預言しています(ルカ19:41~44)。そのようなイエスの預言を知っているペテロが、イエスを信じれば民族的救いを受け、ローマの圧政から解放されるという希望を当時のイスラエルの人々に語ることはありえません。

MEMO

教会では、マタイ21:43の意味として、「神の国はイスラエル(ユダヤ人)から取り去られて教会に与えられた」と教えられることがあります。これは「置換神学」と呼ばれる間違った考え方です。この箇所の「民(エスノス)」とは、民族や国(nation)を指す言葉です(マタイ24:7、ルカ7:5などを参照)。教会は民族でも国でもありません。この聖句は、「神の国(旧約聖書で預言されていたメシア的王国)は、1世紀のイスラエル民族ではなく、メシアを受け入れて民族的救いを経験する将来のイスラエル民族に与えられた」と解釈するのが最も妥当です。なお、将来世代のイスラエルが民族的救いを経験することは、ローマ11:25~27などで預言されています。

みずからの議論の説得力が欠けていることを自覚してか、ジャスターは別の論拠として次のようにも語っています。
イェシュアは、すべての人の救いに必要な「本質(Reality)」の名前に過ぎない。確かに、福音を聞いて理解したら、その「名前」に対して明確な応答がなければならない。そうでない場合は、新しい契約以前の時代の聖徒たちのように、名前が啓示している本質に対して暗黙の応答がなければならない。4

【原文を読む】

Yeshua is the only name of the Reality by which all must be saved. Indeed, when the Gospel is heard and understood, there must be an explicit response to the Name. Otherwise, as with the pre-New Covenant saints, there must be an implicit response to the Reality that the Name reveals.

この議論も、いくつかの問題があります。 第一に、ここでいう「本質(Reality)」とは何かということが定義されていません。そのため、きわめてあいまいで、意味不明な言葉となり、ユダヤ人がどのように応答すれば救われるのかということがまったく見えてきません。 第二に、この考え方は近年メシアニックジューの間で広がっている「無自覚の仲介(Unrecognized Mediation)」と呼ばれる教えで、全米最大のメシアニックジュー会衆のネットワークMJAA(Messianic Jewish Alliance of America)の下部組織であるIAMCS(International Alliance of Messianic Congregations and Synagogues)によって公式に否定されています5。 この「無自覚の仲介」という教えは、「イェシュアをメシアとして受け入れたこともなく、メシアと個人的な関係を持っているという意識もないが、無意識的な暗黙の応答によって、イェシュアによって救われているユダヤ人がいる」という考え方で、二契約神学と類似した教えです。この点については、別のQ&Aで取り上げていますので、そちらをご覧ください。

関連記事

Q&A「『Unrecognized Mediation(無自覚の仲介)』の教えとはどのようなものですか?それは聖書的な教えですか?」(作成中)

ただ、この考え方は、イエスを明示的に信じることを救いの条件とする次のような聖書箇所を見るだけでも、非聖書的な教えであることがわかると思います(ほかにも、ヨハネ6:53、1ヨハネ3:23を参照)。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
(2)ヨハネ3:36について
次に、以下のヨハネ3:36に対するジャスターの解釈を検討します。
御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
この聖句について、ジャスターは次のように語っています。
先ほど引用した排他的な聖書箇所(訳注:使徒4:12、ヨハネ3:36、1ヨハネ5:12)はどうなるのだろうか。まず、人は明確に提示されたものでないと拒絶できないという点に注目しよう。ヨハネ3:36は、御子を拒絶する(訳注:新改訳聖書では「聞き従わない」と訳されている)者には神の怒りがとどまると語っている。6

【原文を読む】

What of the exclusionary verses that were quoted? First, let us note that one can’t reject something he or she has not been clearly offered. John 3: 36 says the wrath of God abides on the one who rejects the Son.

民や個人に責任が生じるのは啓示が与えられた時で、このタイミングは人それぞれである。啓示してくださる御霊が拒絶されてはじめて、その人は「失われた」状態になる。7

【原文を読む】

The time when people and individuals are responsible is when revelation is given, and this time is different for everyone. It is only when the Spirit-revealer is spurned that “lostness” ensues.

つまり、ユダヤ人は、イエスの福音を提示され、それを明確に拒否する以前は「失われていない」(霊的に死んでいない)ということになります。しかし、これは次のような聖句と矛盾する考え方です。
私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:3)
「生まれながら御怒りを受けるべき」とは、生まれた時から罪人で、神から離れ、失われた状態にあるということです。これを語っているのはユダヤ人で、しかもピリピ3:6でみずから「律法による義についてならば非難されるところのない」と語っているパウロなのです。そのパウロが自分は「御怒りを受けるべき」者だったと語っているのです。 また、イエスは十二弟子を宣教に送り出す際、次のように言われました。
5 イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。 6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。 7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。(マタイ10:5~7)
ここで言われている「イスラエルの家の失われた羊たち」は、すでに福音を聞いている人々でしょうか。いいえ、まだです。だから、十二弟子が宣教に行こうとしているのです。それにもかかわらず、イエスは宣教先のイスラエルの人々を「失われた羊たち」と呼んでおられます。 また、使徒ヨハネは次のように語っています。
18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。(ヨハネ 3:18)
ここでは、御子を信じない者は「すでに」さばかれていると言われています。つまり、イエスを信じない者は、信じないという決心をする前からさばかれている、失われているということになります。
(3)1ヨハネ5:12について
最後に、次の1ヨハネ5:12に対するジャスターの解釈を考察します。
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
この聖句について、ジャスターは次のように語ります。
旧約聖書(タナハ)を霊的な意味で信じていたユダヤ人は、まだ来ていない御子を持っていたと言えるだろうか?ほとんどの人は、持っていたと答えるだろう。それでは、なぜ復活の1時間後、1年後、100年後のユダヤ人は持っていないと言えるのだろうか?8

【原文を読む】

Did the believing Jews of the Tenach in a spiritual sense have the Son even though he had not yet come? Most would say yes. Why not then Jews one hour after the resurrection, or one year, or one hundred years later?

義人であるユダヤ人が復活の(あるいは、個人の責任が生じるタイミングをペンテコステで聖霊の賜物が下った時とするなら、その)1時間後に死亡したとしよう。その場合は地獄に行くことになり、1時間前に死亡していたなら天国に行くことになるのだろうか。そのようなことは考えられないし、非聖書的である。9

【原文を読む】

Let’s say that a righteous Jew died an hour after the resurrection (or the gift of the Spirit at Shavuot or Pentecost, if you wish this to be the time of responsibility); would he be hell-bound then, but heaven-bound if only he had died an hour earlier? This is unthinkable, and indeed, unscriptural.

ある時点で聖書的に線引きをして、「この時点以降は、イェシュアを受け入れていないユダヤ人は失われている」と言うことはできない。10

【原文を読む】

However, at no time can we biblically draw a line and say, “From this time forward, if a Jew hasn’t accepted Yeshua, he is lost.”

この主張にも、いくつか大きな問題があります。 第一に、1ヨハネ5:12の前後の文脈を見てみましょう。
11 その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。 12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。 13 神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。(1ヨハネ5:11~13)
13節を読むと、ヨハネが手紙を書いている相手は、「御子(イエス)の名を信じている」人々であることがわかります。つまり、この箇所を「イエスの名を信じていない人々」も救われることの根拠とすることは、文脈をまったく無視していることになります。この箇所が書かれたのは、イエスの名を信じている人が永遠のいのちを持っていることをわからせるためであり、これをイエスの名を信じていない人が永遠のいのちを持つことができることの証明に使うことは著者の意図とは真逆の主張です。 第二に、「この時点以降は、イェシュアを受け入れていないユダヤ人は失われている」と聖書的に線引きすることは、実際には可能です。パウロは使徒の働きで次のように語っています。
30 神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。 31 なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです」(使徒17:30~31)
ここで「すべての人に」というからには、ユダヤ人も当然含まれています。少なくともパウロがこの言葉を語った時点では、神は「一人の方(イエス)」を立て、イエスをよみがえらせることで、すべての人に悔い改め(罪を悔い改めてイエスをメシアと信じること)を求めておられることがわかります。 第三に、人はその時に与えられている神の啓示に応答することで救われるなら、ジャスターが例として出しているユダヤ人はイエスをメシアと信じているはずです。イエスの公生涯は3年半あり、その間にイエスの名はイスラエル中に知れ渡っていたはずですので、死ぬ前の3年半の間にイエスのことは聞いていたはずです。そして、義人であるユダヤ人であれば、イエスがメシアであると信じていたはずです。イエスは次のように語っておられるからです。
もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。(ヨハネ5:46)
もしイエスを信じていなければ、その人は神の啓示に応答しなかったことになり、義人とは呼べません。 実際に、イエスと一緒に十字架にかけられていた犯罪人は、イエスの復活の前であっても、イエスをメシアとして信じることですでに救われていたことが次の聖句からわかります。
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)
以上で、ジャスターの二契約神学の主な根拠を一通り見ました。ここまでお読みになった方はわかっていただけると思うのですが、ジャスターの議論はきわめて脆弱な根拠の上に立っています。 また、ジャスターの議論に抜け落ちているのは、イエスが宣べ伝えた福音はきわめてユダヤ的なものであり、第一義的にはユダヤ人に向けられたものであるという点です。二契約神学に関する議論の補足として、次はこの点について述べたいと思います。

イエスの「新しい契約」は第一義的にはユダヤ人のもの

新約聖書でイエスが宣べ伝えた福音は、旧約聖書で預言されていた「新しい契約」に基づくものです。これは、第一義的にはユダヤ人に与えられた契約です。そのため、アブラハム契約やモーセ契約と同じように、ユダヤ人はそれに応答することが求められています。 この「新しい契約」は、エレミヤ31章に記されています(エゼキエル37:26~28も参照)。
31 見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。 32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。 33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31:31~33)
ここにあるように、エレミヤが語った「新しい契約」は、イスラエル(ユダヤ人)と結ばれる契約です。 また、イエスは、マタイ15:24で「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」と言われました。それは、新しい契約はユダヤ人に約束されたもので、まずユダヤ人に提示する必要があったためです(異邦人に福音を宣べ伝えたのは弟子たちで、イエスの宣教対象はユダヤ人でした)。 さらに、イエスは最後の晩餐の場で、自分が弟子たちに差し出しているのは「新しい契約」であると明確に語っています(2コリント3:6、ヘブル8:8~13、9:15、12:24なども参照のこと)。
食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」(ルカ22:20)
この契約を当時のユダヤ人指導者が受け入れなかったので、福音が異邦人に向かうことになりました。しかし、ローマ1:16でパウロが語っているように、新しい契約は今もまずユダヤ人に提示する必要があるのです。
私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ(To the Jew first)ギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

結論

以上見てきたように、ジャスターの救済論には重大な問題があり、そのような主張をする人を「ユダヤ人の使徒」と考えることはできません。使徒であれば初代教会の使徒の教え(新約聖書)と一致するはずですが、両者の間には大きな食い違いが見られます。 それでは、ジャスターのこのような主張が広まることで、具体的にはどのような危険性があるのでしょうか。 福音派クリスチャンの世界宣教ネットワークであるローザンヌ運動11が1989年に出した「マニラ宣言」では、二契約神学について次のように宣言されています。
神はアブラハムと契約をなさったので、ユダヤ人はイエスをメシヤと認める必要がないと主張する人たちがある。しかし、ユダヤ人は他の誰よりもキリストを必要としていると言わねばならない。福音は「まずユダヤ人たちに宣べられ」という新約聖書の証言を離れることは一種の反セム主義であり、また、キリスト教の教えに背くことでもある。それゆえユダヤ人はキリスト信仰を必要としない独自の契約を持っているとする説を斥ける。 ― ローザンヌ運動「マニラ宣言」(日本ローザンヌ委員会)
この宣言では、二契約神学は反セム主義(反ユダヤ主義)の一種であるとはっきりと述べられています。二契約神学は、ユダヤ人に福音を伝える目的を見失わせ、救いの機会をユダヤ人から奪うものです。 実際に、ジャスターが設立したメシアニック会衆のネットワークUMJC(Union of Messianic Jewish Congregations)を脱退したメシアニックジュー指導者は、UMJCの指導者には二契約神学などの重大な神学的問題があるとし、次のように語っています。
(UMJCで教職者に任命された)数年後、ユダヤ人伝道はUMJCの優先事項でないことがはっきりしたため、私たちのシナゴーグ(訳注:メシアニック会衆)はUMJCを脱退した。その当時も、そして今でも、伝道に本気で取り組まない組織や会衆、個人は健全ではなく、最終的には不健全な方向に向かうと信じている。 ― Rabbi Loren, “Very Serious Problems With The Union Of Messianic Jewish Congregations” (Congregation Shema Yisrael)

【原文を読む】

After being involved with the Union of Messianic Jewish Congregations (UMJC) for a number of years (for a time I served as the head of the Evangelism Committee), and after completing their Yeshiva program, I was given smicha (ordination) by the UMJC at the Dallas conference in 1992. Several years later our synagogue withdrew its membership from the UMJC when it became clear to me that Jewish Evangelism was not a priority to the UMJC. I believed then, and still believe now, that any organization, congregation or individual that is not committed to evangelism is not healthy, and will eventually head in an unhealthy direction.

ジャスターは伝道が必要であると言ってはいるのですが、ここで「ユダヤ人伝道はUMJCの優先事項でないことがはっきりした」と言われているように、ジャスターの神学的影響が教団全体に広がっていることを見て取ることができます。 もう一つの危険性は、二契約神学はキリスト教の土台とも言える救いの教理を破壊してしまうことです。これはダン・ジャスターに限ったことではありませんが、現代の「使徒」と呼ばれる人々は、聖書と矛盾した教理を教え、初代教会の使徒が築いたものとは別の「新しい土台」を築くことがあります。それは、パウロが言うところの「ほかの福音」(ガラテヤ1:6~7)の土台となります。そのため、この問題は、ユダヤ人だけの問題ではなく、教会全体の健全性にも関わる問題だと言うことができます。 この記事を書いた人:佐野剛史

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参考資料


  1. ピーター・ワグナーは著書で、ダン・ジャスターについて次のように言及している。「神は、ペテロを『割礼を受けた者』ユダヤ人の使徒に任命し、パウロを『割礼を受けない者』異邦人の使徒に任命された(ガラテヤ2:7参照)。どちらも同じ地理的な領域(ガラテヤ、アジア地方など)で宣教していたが、一方は主にユダヤ人に、他方は主に異邦人に仕えた。そのような例は、現在ではダン・ジャスターと私に見ることができる。どちらもICA(訳注:数多くの現代の「使徒」が所属する世界最大の使徒団体ICALの前身)の使徒的評議会(Apostolic Council)の一員で、どちらも米国で宣教を行っているが、ダンは主にユダヤ人に仕え、私は主に異邦人に仕えている」 ― C. Peter Wagner, Apostles Today (Baker Publishing Group, 2012), pp.99-100 (Kindle 版)  
  2. Dan Juster, Jewish Roots: Understanding Your Jewish Faith (Revised Edition) (Destiny Image, 2013), p. 219 (Kindle版) 
  3. 同書p. 224 
  4. 同書p. 225 
  5. Michael Wolf & Larry Feldman, “Unrecognized Mediation: A False Hope” (International Alliance of Messianic Congregations and Synagogues, 2009) 
  6. 同書P. 225 
  7. 同書p. 223 
  8. 同書p. 225 
  9. 同書P. 223 
  10. 同書P. 223 
  11. ローザンヌ世界宣教運動は、1974年スイスのローザンヌにおいて開かれた第1回ローザンヌ世界宣教会議から生まれた。発起人には、米国の伝道者ビリー・グラハム、英国の神学者ジョン・ストットなどがいる。